夏のテスト祭り
本当に夏は来るのだろうか?くらい涼しかったりどんよりしたり。梅雨だから仕方がないが、少なくともパッとしない。
定期考査が終わった。予想より難しいテストに面食らい、すでに喘いでいる選手もいる。もちろん試験勉強の時間は十分にあっただろうが、ついつい「こんなもんでいいかな?」と休んだり眠ったりして「これは出ないだろう!」と考えていたところがバッチリ出題される、こんな経験は誰もが味わっている。そのスキを上手くついてくる先生や親は言う、「だからもっと早く、というか日頃から予習、復習、わからないところはすぐに聞いておかないとダメなんだ!」と。だけど私の身近な人間の中でそんな「できすぎ君」はほとんどいなかった。みんなこの定期考査の前と最中はレベル4の緊張状態が続くものだ。
そもそも定期考査なるものは出題範囲(課題領域)が狭く、ひょっとすると丸暗記で済む場合も少なくない。だが、科目が多かったり特に注意が必要な教科が同じ日に重なると頭の中がオーバーヒートするように苦しくなってくる。
するとそれに対して、「別にこんなこと覚えていなくても、必要になったらGoogleすればいいじゃないか?!」と考える若者は結構いるのではないだろうか?携帯の番号だって覚えないで「アドレス帳」頼りで十分だし・・・。
こんな押し問答が水面下で繰り返される日本の学校教育に?マークを押しつけてくる国内外の批判も耳にする。が私はこれらのイベント(?)を一種の「祭り」と思ってもいいのでは、と考えている。
「夏の定期考査祭り」が終わると梅雨明けが宣言され、途端に青空に入道雲、テレビやラジオからは『栄冠は君に輝く』が聞こえてくる。そして夏休み。当方はいよいよインターハイだ!と勢いが増す。「なに、テストが悪かったって?気にすんなよ!そんなこと」と蝉たちがミーミーコールしてくれる。「高校生諸君!君たちの夏が来たぞ!」と痛いほどの光の束が青春のほおを打ってくれる。この季節が大好きだからこの職に就いた、それくらい毎年新鮮だ。
そんな青春真っ只中のみんなはひょっとして、中高、そして大学の試験が終われば人生は勉強から解放される、などと思ってはいないだろうか?これだけは「ち・が・う・だ・ろ!」と言いたい。言葉は変わるが「勉強」ではなく「学び」は生涯続くと言ってもいい。なぜならば人間の本能のひとつが「知りたい」だし、本気に生きれば生きるほど「学ぶ必要」に迫られるからだ。
本気に生きるとは?まあ社会に出てみればわかるが、大人って余裕で暮らしているようだが、意外や意外、あるいは予想通り、みんなそれぞれ手探りで毎日生きているものだ。それでも家族や仲間やもちろん自分のためにも精一杯働いている。すると時としてオセロが全部ひっくり返る時が来る。つまり何かとてもいいことが起きたときや、その逆に最悪の日々に遭遇する場合がある。その時、ヒトは「なぜだ?」と推論する。そしてそれをあばきたくなる。その時の行為こそ「学び」となる。ただこれは一般の「おべんきょう」と違ってノートやペンがないときがほとんどだ。しかしまた時には「学校」や「先生」に再びお世話になる場合もある、これが人生の中に無数回存在するのだ。
だから1点や2点の定期考査の結果でワーワー、ギャーギャーしないほうがいい。が、しかし20点30点という大規模そして複数教科にまたがる広範囲な災害に遭われている諸君は少し考えた方がいい。それはあなたの中の「学ぶ」アプリの【設定】が正しくなされていないのだ。ほら、よくスマホの調子がわからないときにその達人に聞くと「まず、【設定】を開いてください。」なんて言われて数カ所の「ボタンもどき」をグリーンにするとちゃんと使えたりするじゃないですか・・・。勉強や学びにも【設定】があってそれを整えなければ上手くいかない。さてその【設定】とはどう整えればいいのでしょうか?これが夏休み前の課題です。
この夏休みで、「できないこと」を「できるように」したいですね。「秋のできた祭り」を楽しみにしています。
皆さんの今夏の【学び】そしてその【設定】いかにするのでしょうか?
一足先に熊本から必勝祈願が届きました(OBより)