捧ぐ
コロナは風に弱い、かなんか知らないが窓、ドア全開の生活が続いている。今日はその風が気持ちいい。いつもならこの心地よさを外でも体育館の中でも感じられる頃だが・・・。
閉じ込められる事が一番辛い青春真っ只中の高校生を、真綿で締め付けるような日々が続いている。そんな中「インターハイ中止」という最終宣告でその傷口にドバッと塩が塗られた。しかし、もうすでに今期の高校3年生にとっての大会がすべて中止になっている、だからほとんどの3年生が前に進む扉を目の前でバシッと閉められ続けてきたわけだから、ここで特別な怒りや憤りをどこかにぶつけるのはお門違いだ。
その発表の翌朝、キャプテンからメールが届いた。
「これからは大学受験に向けて、自分の道を進む足を止めることなく、これを糧により前に進みます。」と書かれていた。
あるお母さんからもメッセージを頂いた。きっとこちらの気を遣っていただいたのだと思う。ありがたい。
何かしてあげられることはないかと、考えた挙げ句に始めたweb活用の英語講習会もそろそろ1ヶ月になろうとしている。画像こそお互い見ないで、音声だけで講習会を行っている。私は子供の頃『ラジオ講座』で育った身なので、特に違和感も使いづらさも感じない。むしろ声は相互通信なので、ラジオ講座の先生が直接「指名」してくる。受け手の選手達は戦々恐々としているに違いない。この緊張感もいい方向に働いている。さらに今更ながら気がついたのが、高校英語の学習には学年の垣根がないことだ。中3でも高3でもそれなりに等しく学ぶ瞬間がある。これはいい。異様によく知っている後輩と戸惑っている先輩が同じ時間を共有しながら学び合う、これは実に素敵なひとときだ。ある意味部活もそうなんだが。
この講習会に、いよいよ今日から全員ではないが新1年生、フレッシュマンが加わった。機器の取り扱いや授業進行に戸惑い「なんだこりゃ?」と思ったに違いない。がそれでいい。学びは混沌とした霧の中をゆっくり歩むようなものだから、霧が晴れるのを待つか、自分で走り抜けるかすればはっきり見えてわかる時と出会う。時間が解決してくれるのだ。
さて本来なら、高校1年生がいわゆる「仮入部」を経て、初めての地区大会や関東大会の県予選を目にする頃だ。
その中、今だけでなく昔から、新入部員が「退部するパターン(あるいは『危機』)」がいくつかある。1つ目は入部の翌日、簡単に言えば一日で、一回の練習でリタイアだ。これは結構多い。コート数が少ない学校などは初日に走らせるだけ走らせて「ふるいにかける」悪習がある。
そして2つ目は急に暑くなる黄金週間のあたりや、夏休みの序盤だ。これは体育館の「酷暑」がその引き金となっているが、『心の揺れ動き』が根底にはあるようだ。
ただこのときは前者と少し異なる。「せっかくここまで頑張れたんだから・・・」と先輩などからの説得工作がよくある。わずかな時間でも共に暮らせば「いいヤツ」はなんとなくわかる。だから引き留めるのだ。当の本人は心の中で「先輩はよくこんな生き地獄を耐えられるよな・・・」「この人、化け物かな?」と反論や疑問を持ちながら聞きいる。同時にその『先輩』本人のことをなんとなく見つめ考え始める。その時「こんな人でも続けられたんだから」と見下すような思いは決して生まれないのだ、「やっぱり続けます!」とそこから立ち直る選手は・・・。
ただ「上手いな」や「強いな」とかだけではなく、純粋に「(この人)いいな」と思える人との出会い、初めて自分が心から慕える、尊敬する『先輩』と巡り会うのもこの頃なのだろう。
その『先輩』方が引退する。幸いというか残念というか、西武台には「引退」という文字がないものの、体育館から姿を消す日はある。今年は自分の意思ではどうにもならない幕が無理矢理下ろされた。これを目の前で見た『後輩』はどう感じるだろうか?本当の「つながり」を学んだ選手ならば、慕い、敬う先輩の大切さが、大地に染み入る雨水のようにわかるはずだ。
新入生諸君に捧ぐ。約束は3つ。入学式の日に言ったが、覚えているだろうか?ひとつ目が最も大切なことだ。『どんなことがあっても最後まで続けること』卒業の日まで続けること。後の二つはゆっくり思い出してほしい。練習ができるようになるのはいつかわからないけど、その時にはっきりわかるだろう。1年先、2年先を歩み続けている『先輩』の偉大さを。
そして3年生に捧ぐ。引退はない。そんな言葉も事実もない。前だけを見つめてほしい。
キャプテンからのメールには、「私は教師になります」と綴られていた。
泣かせるじゃねえか!
毎週末に顔くらい見たいから『お題』を出している。
①『シャトルコックをサッカーボールのようにリフティングしてみよう!』
見てやってくんなせい!
朝霧の利根川堤