ないすぅー!
夜明け前の、いわば一日の中で最も暗い時間に家を出る日々が続いていたが、最近は「ハイもうすぐ夜明けです!」という薄明るい地平線を目にするようになった。でも南東の空には、師走のころ南西の空にキーンを輝いていた「宵の明星」が、「明けの明星」と改名しドーんと輝いている。
北京では極寒の中、世界中から若い衆が集まって、滑ったり、飛んだり、はねたり競い合っていた。つい最近東京でオリンピックが行われていた気がするので、ずーとオリンピックに浸っている感じがする。
凍えるような寒いときに、階段の手摺りを滑ったり、「14」だか「40」だか分からないぐるぐる回転を見せたり、よくそんなことできるよね、と驚くことは間々あるし、それ-いけー!と気づかぬうちに記録を目指して盛り上がっていることもしょっちゅうだ。ゴールを切った瞬間の達成感、着地したときのガッツポーズ、互いに抱き合う選手たち・・・、その選手たちのいい顔が一足早い春の彩りを添えてくれた。
画面越しだから寒くはないがそのよろこびは伝わる。また、それがたとえ思わぬ展開にたたきのめされても、それでも前に向かおうとする選手の涙にさえ共感し、次第に深い畏敬の念に変わっていく。昨夏と同様「スポーツの力」論議が沸き起こる。そして時折「トップアスリート=聖人」扱いまでされてしまう。
しかし、そもそもスポーツは「遊び」だ。
ふざけあい、暇つぶしの類いが原点だとされている。しかし、これを学校や社会で一般的に普通に広げようとすると「ルール」が生まれ、それぞれの環境にマッチした形態に変わらざるを得ない。つまり、遊びを学校に入れるのはそのままでは「ならぬ!」とされるので、例えば「武道」の流れに合流させたり、規律正しい「集団」や「学校生活」にふさわしい「風体」にしなければならない。
他方で「遊び」の中核は「楽しい」とか「おもしろい」だろう。だからその「楽しさ」がなくなるとスポーツではなくなってしまうような気もする。雪や氷の中でクルクル回っている選手たちは「楽しい」のだろうな、観ている我々だって「楽しい」のだろう。そして共感の輪が広がる。誤解してはならないのは、ただ単に終了後の面白いインタビューを期待しているわけでも、トリッキーだけの変則プレーを求めているわけではない。
その昔、「スポ根」世代の私には、①息が上がらないもの、②力をめいっぱい入れていないもの、③「一歩間違えば血みどろ感」のないものはスポーツと思っていなかった。それがいつのころからか(もしかしたら「スポーツNG特集」番組が盛んに放映される頃だろうか・・・)、スリル(緊張)とサスペンス(駆け引き)、そして盛り上がり(歓喜と落胆)のある競技なら何でもスポーツだと思えるようになった。この西武台のバドミントン部も変わってきた。刺すか刺されるか!の仁義なき戦い時代から、持続可能性のある楽しみの追求の時代へと変わった。言い換えると(これは当ホームページのAbout Usにも書かれているが・・・)、「メンタルタフネスの追求からマインドフルネスの獲得へ」と進化してきた思っている。
そんな時代背景の中にスノボーやフリースタイルスキーが入り、そしてカーリングが現れた。
「ないすぅー!」、ロコソラーレの皆さんはよく声をかける。互いに話し、そして食べる。正直に言えば私も当初は「どれどれ、あの娘たちどうなんだ~?」と上から目線で眺めていた。しかし、彼女らの眼差しや歓喜と落胆のすべてを見るにつけ、そして北海道の常呂町を舞台にした人々の思いを知るにつけ、のめり込んでしまった。小平選手が「氷上の哲学者」なら、ロコソラーレの選手は、声と心を合わせてドラマをリズミカルに演じる、「氷上のミュージカルスター」のように思える。
昔々、「オリンピックは戦い(戦争)の代わりにやったんだ!」と話してくれた方がいたが、それならばプーチンさんとバイデンさんがカーリングで決着付けますか?
「そだねー」から「ないすぅー!」に変わった彼女らに、どうしても目の前の選手たちを重ねてしまう。だからこれからは「インターバル」と呼ばずに「もぐもぐタイム」と呼ぼう!
ついでに、「そだねーボタン」と「ないすぅー!ボタン」がほしい。
来週は卒業式だ。
明けの明星