観る目

梅雨が明けた。

インターハイも差し迫ってきているが、この季節の風物詩はなんと言っても高校野球だろう。本校も甲子園を目指して挑んだものの不運にも夢届かず残念だった。甲子園常連校や伝統校が予選敗退などすれば相当な批判にさらされるらしい。何せ日本の野球熱は国民すべてを「解説者」にしてしまうくらいの力があると言う。

休み前の全校集会で校長先生が興味深い話を聞かせてくれた。
「勉強ができる子とできない子の差は、トランプに仕掛けが(しるしが)あるのを知っているのと知らないくらいの差です。」
「なんだイカサマか?!」と思った生徒も多いようだが、その後の詳しい話を聞けばそうでないことがわかったはずだ。何か大切な「しるし」が見えるか見えないかがその差だというのだ。例えば「赤い小さい丸」がついているカードは「ハートのエース」と仮にしたとする。ついていなければそれ以外のカードとなる。つまり何かの「法則」が見えるか見えないか、知っているか知らないのか、と言うことだ。
英語でも数学でも国語でも、そう考えればそんな「法則」めいたものをしばしば目にする。そしてそれらを手がかりに問題の解決に挑むことがひとつの「学び」のプロセスになっている。

ではバドミントンはどうだろうか?そんな「法則」なんてあるのだろうか。
私はあると思う。あるいはそんなものが「見える」瞬間もある。

選手はもちろん指導者も長い年月で熟達の過程を経る。若い頃、その当時はずいぶん横暴で無鉄砲な指導者がいたものだが、その名匠と言われる指導者の門を叩いて私が観たものは、「私には見えない『しるし』がこの先生には見える」というものだった。その「見る目」は長い年月の中で様々な困難と葛藤を経ながら鋭く鍛え上げられていたように感じ取れた。

選手が見えれば簡単な話だが、「岡目八目」とはよく言ったもので、遠巻きに見ている方がよく見えることがよくある。しかし一方で最近は情報量が思う以上に膨れ上がり、その感覚(センサー)にも狂いや迷いが生じ、「目」が育ちにくい様な気がする。

野球に話を戻すが、国民的スポーツだからこそファンの目も鍛え上げられているのかもしれない。だが「指導者」としてはこの「見える」だけではダメだ。これは成長過程の初段階であってまだまだ先が遠い。その次はその観たものから、選手にピタッと合った練習を創造しなければならない。批評はできるが改善策が言えないようでは問題は解決しないのと同じだろう。
しかしさらに、指導者はその上が求められる。それは「できるまで付き合うこと」だ。これは結構しんどい。
これらは、卓球の神様、荻村さんの言葉を引用したに過ぎない。

さて、この夏、どこまで付き合えるか、先はまったく見えない。