開演のベルが鳴る

 さあこれからどんどん暑くなるぞ!と思えば寒くなり、穏やかな日差しなのに風が吹き荒れたり、落ち着かないまま黄金週間に入った。

 関東大会の県予選が終わった。男子は痛恨のエラーが重なり、連続出場が途絶えた。しかし復活の狼煙(のろし)はすでに上がっている。日はまた昇るだろう。

 最終日の会場にはベンチが並べてあった。県大会では数年ぶりのことで、たったそれだけでウキウキしていた。何せ全員(残念ながら人数制限はまだあったが・・・)で声を張り上げて応援合戦ができる、そして選手の間近で同じ時を過ごせる喜びは何にも代えがたい。

 しかし困ったこともある。「あれ、応援ってどうやるんだっけ?!」という素朴な疑問がわいてきた。高校の大会応援を知っている選手がいないのだ。それでも今はYouTubeだの何だのと過去の記録が手に入りやすいので早速全員で応援団を結成し、ゲームが始まるや否や雄叫び合戦が始まった。

 けど何か違う・・・。長く同じベンチで耳にしてきたあの西武台チアーではないような気がする。あれー?と思っていると、すかさずアドバイスが入った。

「最初はゆっくり、だんだん速く、そして大声出すんだよ!」とつい最近まで声を張り上げていた若いセンセイが一緒にベンチに座りながら細かく指導していた。それを受けてキャプテン竹澤自ら大音量で爆裂応援コールをしていた。私は一番端からみんなの横顔をのぞいてみた。それこそ「青筋立てて」応援している。その顔、まなざし、歓喜、躍動感・・・、それを見ているだけでグッときてしまった。

 そもそも彼女、彼らたちはたちは何のために、そして何を夢見て部活をやっているのだろうか?

 もちろん「勝ちたい」とか「エースになりたい」とは思っているだろう、たぶん。だけどエースは一人だし、チャンピオンだって同じようにほんの一握りの人たちだ。無数のそれ以外の人が裾野を作っている山の頂を目指しているのだろうか。おそらくそのイメージはちがうと思う。誰もが隣に自分がいつかなれると思っているヒーローがいる。幼いころの「・・・マンごっこ」や「・・・ちゃん遊び」のように自分がなりきって遊んでいるのが中高生になっても、そして大人になっても続いているんだ。そりゃ「無理だ」とわかっていてもやる。無理でもいいから自分をヒーローにしてみようとする。そのヒーロー像がたまたま近い奴らが集まって「ブカツ」ができている。だからヒーローは遠い高い山の頂上にいるんじゃなくて、すぐ隣、下手すると自分と重なる瞬間もある。そしてそのまた隣にはトモダチが、仲間がいる。いわゆる専門家のセンセが様々な角度で部活を切り刻むが、どれをとっても「薄っぺらい」のは、その場にいないからだ。今、「働き方」だとか「地域へ」などと、自分のヒーローを見失った大人たちの理屈で中高生の部活動がゆがめられてきている。大人は理屈をつけるのは上手だが、現場の若者の心は読み取れない。そんなこと言っていたら「お前いくつになったんだよ!?」と不思議がられてバカにされると思っているからだ。バカになんかしやしないよ、むしろ立派だと思うよ。

 竹澤劇場の幕が上がった。

 毎年恒例であるが、その代のキャプテンが座長になって旅芸人のように秋冬まで回っていく。今年のキャプテン、竹澤選手も歴代の座長に負けず劣らず「気」が入る。自身がコートで大暴れするドタバタ芝居から、縁の下の力持ちになってすべての役にスポットライトを当てる「人情喜劇」までなんでもこなす。しかもナレーションや解説、そしてロケ終了後の反省会まで仕切れる。たいしたもんだ。今回の反省会はホワギョーだ。

 コートに立つ選手はさしずめヒーローで、ベンチのみんなやサポートの選手たちは脇役としてチームワークよく主役に光を当てる。だがよくよく考えれば、演出監督の目やカメラは自分の心の中にある。だから自分の劇や映画の中では、誰もが圧倒的主人公で、周囲のみんなは脇役として支え続けてくれる。そしてクレジットの最後は「・・・自分の名前・・・」がロールする。

 アジア選手権で各国の選手たちがが活躍していた。まさにヒーローたちがコートでその魔力を見せつけてくれる。山口選手が、TAI Tzu Ying、An Se-young、陳雨菲選手とともに映っている写真をSNSにアップしていた。まさにヒーロー見参!だ。西武台の選手だって、千葉県の選手だって、日本の選手だってみんなヒーローになりたいんだ、仲間と手を取り合いたいんだ。そして泣いて笑って同じ時を過ごしたいんだ。

 思いっきり自分たちのステージ(中には『土俵』の選手もいるだろうが・・・)で大汗かいて泣きベソかいて盛り上がりなさい!

フツーじゃん!