学校は玉手箱2
急にあたたかくなった。なぜだかこのあたたかさや日差しが、人生のある瞬間に感じただろう「もしかしたら・・・」というほんの小さな希望をデジャブさせてくれる。卒業式も終わり、みんないい顔して前を見据えて巣立っていった。
さて、毎週水曜日は学校の体育館が使えない。これは創部以来続いている。その水曜日の使い方は時代により、そしてひとにより様々だ。娘が小さい頃は3人で家庭サービスモドキのバドミントンを街の体育館を借りてやっていた。懐かしく愛おしい。その後この街にインターハイが来る(2005年)、国体が来る(2010年)ということになって、それに向かって該当学年の子供たちを対象にかなり密度の濃い練習をやっていた。通称「すいようれん」だ。
それが2013年からは、私たちを支えてくれているNPO(特定非営利活動法人アルファバドミントンネットワーク)の活動に私も関わっている。正式には『アルファクラブ』と言われ、地元の子供たちに【バドミントンを提供している】のだ。「提供している」とはどのようなことなのか?例えば[ジュニアチーム]と比べればわかりやすい。[ジュニアチーム]の最終目的はだいたい[勝つこと][強い子を育てる]である。一方アルファクラブは[バドミントンを楽しむ][バドミントンで遊ぶ]ことが趣旨である。これが分からずに当初は「西武台がまたジュニア始めたぞ!」と戦々恐々としていた人がいたと聞いた。笑た。
違うんです。アルファクラブは「子ども食堂」のバドミントン版なんです。例えば「子ども食堂」で[調理人なるんだぞ!]とか[この恩は一生忘れるな]的な関わりはしていないのと同様に、アルファクラブは「バドミントンで遊ぶ・楽しむ・仲良くなる」が目的で、こちら側は「強要しない、怒らない、教えない」を守らなければならない。指導者として求められるハードルはある意味かなり高い。つまりアルファクラブが終わり、親が迎えに来て、夕日に顔を赤く染めながら「今日も楽しかったなぁ」と思える時間を創造することはなかなか難しいことなのだ。
そのアルファクラブ、今回が6年生にとって最終回だった。男女数名の6年生はいつものように笑顔で大声で元気に羽を打ち合っていた。が最後の最後ひとりの女の子が涙を流した。その子は1年生から6年間通い続け、そのたびに一回も欠かさず日記をコーチに出していた。そこには毎回自分の素直な気持ちが綴られ、コーチも赤ペンで応えていた。大会なんて一回も出ていない。スーパーショットが打てるわけでもない、ただただ毎週、毎回ラケット担いで「こんにちは」「ありがとうございました」の繰り返しを6年間続けた。コロナ禍のあるときはその選手一人きりでコーチと二人でネットを張りバドミントンを楽しんだそうだ。その泣き顔、母親との一緒の姿が一枚の絵のようになり美しかった。
奇しくも「小学校~それは小さな社会~」という映画を見たばかりだった。だから当然のようにオーバーラップしてしまう。素晴らしいドキュメンタリーだった。オープニングの場面でもう涙が出た。感動ではない、共感である。それは自分が子どもだったとき、そして親になったときの共感、さらに教師である私自身の共感であった。いくらドキュメンタリーと言ったって、子どもも先生もカメラを意識しているんだ、演技してるに決まっている、と揶揄する方もいると聞く。だが私はそんなことすべてを差っ引いても、この子どもたち、先生方は輝きを失わず、希望を与え続けてくれていると感じた。
育てるとはロボットが流れ作業でロボットを作り上げるような単線系な行為ではなく、複雑に絡み合った人と人が織りなす行いであると思う。バドミントンだって、ラケットの持ち方、足の動かし方、打ち方などを知ったってまだまだ足りない。もっと多くの学びの中で選手は磨かれていく。
そんな泣き笑い、怒りや安らぎなどを繰り返しそこから宝物を産み出すところを「学校」と呼びたい。
前述の我々のサポーターであるNPOは、選手にあえてバドミントン以外の体験を提供している。多くの体験は多くの人とのかかわりの中から生まれ学びへとつながっていく。NPOの役員は言う、「体験"0"(ゼロ)からは何も生まれない。"0"(ゼロ)に何をかけたって"0"(ゼロ)。ひとつだっていいから体験させたい。」と。
春 Spring 泉がわくように、バネが弾むように、希望の花びらが風に舞う季節をともに楽しみたい。
春が来た2025 楽しかったですよ!