学びを楽しむ

 休校が続いている。西武台だけでなく、日本全体、世界全体が急ブレーキをかけている。

 だからといって何もすることがなく、寝てばかりいるわけでもない。いつもやらない事や、長いことやりたいと思っていたことをしている。

 どんどん部屋が片付いていく。その際には古い写真やビデオや本や雑誌が山のように出てくる。デジタル化になる前の古い写真は味があっていい。こどもの頃から高校生くらいまでの写真は少ない。学生時代から20年間くらいの写真はずいぶんあった。実になつかしい、という感動よりも、そこに写っている自分が情けなくて、アホらしくてひとりでウケていた。そうこうしていると、実父が今の私より若い頃に書いた小説が載った業界紙が出てきた。読みながら文字起こしもやってみる。意外と苦労しながらも、ストーリーに出てくる家族やその頃に思いをはせる。しかしやはり時折現れる「こどもの頃の自分」に出くわし、これまた情けなく笑ってしまった。

 本は好きなだけ読める。ただし、新しい本はまだ買わない。昔読んだ本を読み返している。その頃は「後でもっと丁寧に読もう」と思いながら、とりあえず読み終えた本を、それこそ線を引いたり、メモを取り隅々まで読み返している。もちろんその時は解らなかった事がわかったり、勘違いしていた自分に気づいたりもする。他方感動的なシーンは今でも全く色あせずに、若いときよりもさらに心の奥底まで届くのがよくわかった。

 この際だからwebを活用したやりとりも、あれこれ使いながら覚えた。選手とはいくつかの連絡方法はあるのだが、中でもwebを利用した三つの方法を駆使している。電話やメールでは一対一のコミュニケーションが主だが、これらwebの方法は1対全員、全員対1、全員対全員などのやりとりもできる。もちろん直接会って、顔を見て話して、語り合って笑い合うのが一番いい。一方でwebツールは、最初はつながるだけで楽しいと思っていたのが、確実に生活のインフラ(道路・橋・公共施設など「産業や生活の基盤となる施設」のこと)としてその格を上げていることを知り、今や水や電気などと肩を並べるライフライン(命綱・生命線)にもなっていることにあらためて気づかされた。

 このwebを使って連絡をとるだけでなく「授業」もやってみた。意外や意外、とてもいい。画面に顔が出てはお互いやりづらいだろうから音声でやりとりをしているが、さまざまなアシスト機能がついて楽にやりとりができる。英文をじっくり腰を据えて読む余裕があるのでさらに大きな収穫を得た。

 話は変わるが、私の家内は信州生まれである。長野は「教育県」と言われているが、それはなぜだと尋ねた。「これといった産業が無いから、都会の人に負けないように勉強だけは力を入れた」ようなことを話していた。ではなぜ勉強なんだろう?考えているうちに当たり前なことに気づいた。実は勉強こそ「誰にでも平等に与えられたチャンス」なんだと。昨今、やれ「家計と学力」だとか「親の学歴と教育」だとか言って、さもこんな不平等なシステムはない、とまで断言までしている輩がいるが、ある意味ちがうだろう。勉強は、いや「学び」はお金とか地位とか家系などとは全く関係のない「自由な楽しみ」なのだ。そしてそれは人が社会と接する時に優しく包んでくれる「毛布」のような存在だ。貧しい地方の青年が苦しい生活の中で学んだ知識や知恵でみんながハッピーになること、なったことは少なくない。「こどもには英語だけは苦労させたくない。だからロンドンに連れていったんザーます(今言わねぇな)」だとか「(大金かけて)家庭教師のお兄さんに名門○○大学に入れてもらったんだ!」などの発言を聞くと、それもアリだけど、じゃないのもアリなんだよ。と言ってあげたい。

 スポーツもそうだ。苦労してチームを渡り歩いたり、無理して遠くの学校に入れたり、借金までして甲子園を目指したり、それもアリだけど違うのもアリだ。スポーツだってみんなに等しく与えられたチャンスであり、「お金では買えない楽しみ」でもある。それはスポーツも「学び」だからだろう。

 何もできない、誰にも会えない、淋しい今。料理をしようと思ってもジャガイモの皮も満足にむけない、魚もキチンと炭化させてしまう、そんな自分のできること、私にできることは「バドミントンを教えること」と「英語を教えること」だけだ。どちらも将来みんなを包んでくれるあたたかな「毛布」になるように願い、さらに早く落ち着きますように、という願いも一緒に。

広く見えるな。

 

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