コブラハイ

 1987年の夏もめちゃくちゃ暑かった。

 練習は単調でしかも長かった。選手は男子だけ。1年生は16名で、コブラハイ(正確には「のボーカル」)はその中でも常に話題を提供してくれる大変ユニークなサウスポーの奴だった。

 コートは2面、後の2面は移動用ポールにスズランテープを引っ張りそれをネット代わりに使っていた。そのテープの上か下かでもめるのは日常のことであった。

 コブラハイ(ここからはそれだけにします)は地元の中学校の野球部出身で、利根川に近い田園地帯から自転車で通学していた。相方はウメさん。卓球部出身で一見おとなしく無口なように見えるが、コブラハイにはズバズバ意見を言っていた。二人のコンビは卒業までずっと続いていた。

 彼らのエピソードは無限に近いほど多いがこのコーナーではもちろん書ききれないし書けないことだらけなので一つだけに絞る。

 自転車での帰りは、野田の中心部、今ではシャッター街になってしまったが、懐かしい昭和のままの商店街を突っ切る。その序盤に一軒の書店があった。コブラハイは大学に行きたかった。今ならばネットでスイスイ調べてあれやこれやの情報を山のように、時には処理できないくらい収集しているが、当時は書店で売っている「黄色の分厚い大学ガイド」が唯一の情報源だった。彼はその本の立ち読みが目的で毎日足しげく通っていた。たまにならいいかもしれないが毎日ともなるとさすがの相方のウメさんもうっとうしくなった。彼の進路希望はまた違う方向でもあったからなおさらだ。一方コブラハイは何でもいいから大学に進み自分を試したかった。だから毎日その「黄色の分厚い大学ガイド」を手に取り、立ち読みするため閉店に間に合うようにチャリンコをとばした。

 彼らはいわゆる「団塊ジュニア」と呼ばれ、全国同世代で200万人を超えるライバルの中、人生の各ステージごとに熾烈な生存競争を経験しなければならなかった。挙句の果てに大学の定員も限られ、入試方法も限られ、実質的な競争倍率は現在の比にならないほど高かった。さらに出来立ての千葉最北端の私立高校にはノウハウも実績もコネもない。大学という進路希望が叶うのはごくまれなことだ。

 書店の店員は漫画に描いたような典型的な男で、はたき(ホコリを落とす先端に短く薄い布切れが数枚ついているもの)を手に店内を巡回する。そしてコブラハイたちの前に憮然とした表情で現れ、「そんなに欲しけりゃ買えば?」といい、さらに「いつもいつも立ち読みしてるから本がボロボロになってるだろう!」と二人を詰めた。他方コブラハイは謝るのが上手い。相方のウメさんもうまい。二人に謝れたら「しょうがない」とどうしても言ってしまうくらいのペコペコが上手だった。そのあとの店員とのやり取りが面白かった・・・、そのことは覚えているが、詳しいことを失念してしまった。残念だ。

 ウメさんは卒業後東京のお巡りさんになった。そしてコブラハイは昼間働きながら大学の文学部英文学科で学ぶことになった。学生生活の中で出会ったギター、酒・・・が彼の人生をさらにファンキーにしてくれた。

 大学卒業後音信は途絶え、どうしているかとみんなで話しているうちに、ウメさんは固くお勤めを続け、コブラハイは阿佐ヶ谷あたりでラーメン屋を切り盛りしていると聞いた。とある婚礼の後、したたか酔った勢いでその店を訪ねると、カウンターの向こうにコブラハイがいた。相変わらずファンキーだった。

 数日前に学校あてにコブラハイ(バンド名)のアルバムがぎっしり詰められ、手紙が添えられた箱が学校に届いた。手紙には「もうバドミントンはしてませんが、気持ちはいつでもコートの中であり、晴天の日は江戸川土手を思い出しています。武台魂はそれぞれの心に不滅です・・・」と書かれていた。古い映画で失礼だが、映画「男はつらいよ」に出てくる「寅さんの手紙」を思い起こした。変わらぬロック魂に敬服する。

 アルバム『コブラハイの世界』、昭和のにおいがたたずむ、そして東京の味がする彼らしいアルバムだ。しかし懐かしい声だなぁ。野田でライブをお願いしたい。後輩たちにそのエネルギッシュな生き様を見せてくれ。そしてあの時の本屋のおやじの話をもう一度正確に聞かせてくれ。ついでにウメさんも来てください。

 CDは、コブラハイの後輩で市内にいるOBたちに配ります。お聞きになりたい方は「そのあたり」を訪ねてください。そして『コブラハイの世界』を聞いてください。

 まさ、ありがとう。