アジサイの涙
梅雨入りかと思う雨が続いた日に、私たちは最愛の盟友を失った。
遠いある日、私はこの街、この学校にやって来た。知り合いもいない、街の様子も知らないこの野田市にやって来た。「よそ者」である私に声をかける人はいなかった。それでも芸は人を助ける、とはよく言ったもので、私にとってのバドミントンが一つの「芸」であったのか、かすかな光を運んできてくれた。その最初に差し込んだ光が古橋さんだった。
「先生の学校でバドミントンやらせてくださいよ!」と声をかけてくれて、西武台で最初にバドミントンをやった仲である。聞くと歳も近く、地元出身、野田北高校(現野田中央高校)のバドミントン部で関東大会出場経験があるという。その後市民大会などで幾たびか羽を打ち合い、酒も飲み交わす間柄になった。一方、古橋さんはご家族でバドミントンを楽しんでいて、息子さん、娘さんが西武台でバドミントンをやるようになった。今度は「保護者」としてお付き合いを続けた。
お仕事も熱心で、我が家も何度もお世話になっている。その忙しい仕事の合間を縫って、旅好きの古橋さんは、とてつもなく大きなバイクを操ってあちこちに出かけて、ゴルフを楽しみ、酒を愛し、そして人生を謳歌していた。
なにより人付き合いが上手な人だった。地元のジュニアバドミントンクラブのコーチになり、小学生の子供たちに慕われ「やさしいコーチ」としてその後の西武台を支える数々の選手の心を育んでくれた。
古橋さんは「ノー」を言わない。「いいですよ~」と、とことんつきあってくれる。高校の全国大会では、岡山、山形、富山、青森・・・と、いつも奥様と一緒にクルマで来てくれて、選手の面倒をみながら熱心に支援をしてくれた。ほぼ皆勤賞だった。
大会以外でも、当NPO法人理事としてほとんどすべてのイベントに駆けつけてくださり、運営に携わりながらニコニコして高校生の面倒をみてくれた。いつしか本校学園の役員も引き受けてくださり、バドミントン部の「防波堤」としてお守りいただくようになっていた。
昨夏、一献を傾けた折、少し元気がなかったように今なら思えるが、急だった。
市役所に勤める娘さんがいよいよ華燭の盛典を迎える日が近づいてくるが様態が安定しない。それでも「約束を守る男」りゅうちゃんは、娘の晴れ姿を病室で行われた特別セレモニーで見届けたそうだ!そしてその日に永遠の眠りについた。旅好きのりゅうちゃんはまた旅に出た・・・。私たちもいつの日か旅に出る。その旅の途上でまた会いましょう。ありがとうございました。
梅雨の晴れ間、悲しみの涙できれいなアジサイが幾重にも重なって見えた。

稲刈りの日、微妙に後方にご家族が・・・。
