おにぎり

さわやかな五月晴れの週末、今夏のインターハイを目指す予選、地区大会が始まった。

気候も良く家からもさほど遠くない会場には、ある意味高校生活の集大成をひと目見ようと、母、父、そして祖父母あたりも来ていた。会場は冷房を効かせなければならないほどの熱気に包まれていた。

おおよそ半世紀前の私たちの時代には会場まで足を運ぶ家族はほとんどいなかった。子どもはひとりではないし、仕事が忙しく、心身ともに疲れ果てた週末にわざわざ・・・、というのが一般的であったが、その背景にはバドミントンなんて面白いの?わかんない。という内心が隠れていた気がする。

ルールのスコアリングシステムが変更され15点になった。これは大会運営サイド、そして見せるバドミントンを広め、他競技のようにエンタメ化したいと願う人たちの思惑がうねりになって一気にわれわれを飲み込んだ形になっている。

だが、そもそもバドミントンが、野球、サッカー、バスケット、バレーボールなどから距離を開けられている「事実」から目を背けてはならないと思う。つまりなぜバドミントンは「やる人」がまあまあ多いのに「観る人」が少ないのか、というスタート地点に立つべきだと思うのだ。

シャトルコックの性質が大きいと思う。あの減速だ。ジャンピングスマッシュを放った瞬間の①打撃音、②初速、そして相手コート内での③超減速、この落差の激しいスピード感のラリーが繰り返されるのだが、これは(紙)風船を打ち合うような風景に似ていて、どこかのどかな感じもする。だからバドミントンのラリーは終わらない。じゃあ、終わりはなんなのか?ズバリ「ミス」である。観客は観戦時間のほとんどを「ミス」を見続ける。もちろんスーパーショットはある。ノータッチで決まるスマッシュもある。しかしそれは「短く、浅く返球をしてしまった」という「ミス」で、最後方から打たれたショットがとれないのはよほど練習が足りない選手と言える。だから小中学生ではこのようなことが平然と起きてしまう。そこで「攻めて決めろ!」的先制攻撃論がまかり通る(この点のシフトチェンジが高校生では必要だ)。

他方、野球では「ホームラン」、サッカー、バスケでは「ゴール」、柔道「一本」、ボクシング「ノックアウト」、相撲「押し出し、など」の『決まり手』に一喜一憂できる。相撲や野球などではビールをあおってほろ酔い気分でも「あっ、決まった?!」なんてその瞬間に乗り遅れない。

しかしバドミントンはそうではない。うまくなればなるほどラリーやゲーム、そしてマッチは長くなる。決まらないから。そしてお客さんはいつまで続くかわからないラリーに目を左右に動かしながら、「あ~っ・・・」というため息とともに「ミス」を見続けることになる。

ではバドミントンは観ていて面白くないのか?私はそうは思わない。長~く続くラリーに、その選手の鍛え上げられた肉体の巧みな動きと、人並み外れた持続力に魅了され、ゾーンに入った2人、4人がまるで会話をしているかのようなやりとり、そしてゲームが終わったときにおとずれる互いをたたえ合う瞬間に、私たちは拍手を送る、こんな卓越したプレーに私は心身ともに洗浄されるのだ。

さらにもう一つ付け足して言わせていただく。バドミントンだけでなくスポーツや、音楽、美術などの芸術分野に接するたびにその選手、作者の「人となり」について知りたくなる。「へーっ、やっぱりそうだったんだ。すごい人生を歩んでいるんだなぁ」と。そしてそこで初めて知る「アナザーストーリー」に心をつかまれる。それは人知れず超えてきた困難や挫折、支え、支えられてきた長い道のり、そしてそれでも咲き続ける大輪の花びらのような微笑みとして我々に伝えられる。それに対して私たちも微笑みながら涙を流し、「感動」というお返しをする。

オリンピックやインターハイでなくても、こんなちっぽけな地区大会でもそれは同じだ。

ことの大小は問わず、「もうダメだ」と思っていた日々「それでもやっぱり頑張る!」と誓った日、そして「これだ!」ときらめく瞬間も合わせて観れば、あらためてバドミントンは面白いと思える。そんな日々を一番近くでともに過ごしてきた親や家族にとっては、勝ち負けなんかよりも何倍にも観る価値が膨れ上がる。だから会場に足を運ぶのだろう。

私の母親は一度たりともバドミントンを観ずに他界した。しかし、今にして思うと、高校時代の県大会の日、お昼もとらずに夢中になって試合を楽しみ、夕刻観客席でお弁当袋の中に手を入れるといつもより「何倍も」大きなおにぎりが入っていることに気づく。「あ~っ、今日が大会だって知ってたんだ・・・」くらいしか感じなかった自分が情けない。

さあ、まだまだ観ますよ、感じますよ、あなたたちのバドミントンを!

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