有朋自遠方来、不亦楽乎【朋有り、遠方より来たる。亦た楽しからずや】
暑さの記録が次々に塗り替えられていく。
豪雨で被災した方々の水火の苦しみに謹んでお見舞い申し上げます。
学校は残すところ2日、今日は台湾の姉妹校の高校生が来校した。体育館での歓迎会は暑く長かったが、互いに自分たちを素直に表現する良い場だった。
そう言っているこちらも、来年2月の中国選手来日に向けての打ち合わせに、中国広東省広州市に週末を利用して行ってきた。
広州市バドミントン協会並びに同チームとは20年以上の付き合いとなる。正式な交流事業だけでも16回、その他を含めると20回以上の交流になる。協会や体育学校の幹部の方々は人事異動などで代わったものの、現場を支える指導陣はあちらもこちらもかわらず長い長い付き合いを続けている。このほどもそのコーチ陣が全員そろって歓待してくれた。互いの年齢も近く、気軽に冗談も言い合え、杯も数え切れないほど交わしてきた。
今回の訪中で一番感銘を受けたのは「広州市バドミントン列伝」を拝見したことだ。広州市からだけでも過去40年の間に世界チャンピオンを20名近く輩出している。その広州市バドミントン協会があるセンターの一角にそれぞれの功績を称える「資料館」なるものができていた。歴代のチャンピオン、指導陣や数々のエピソードが丁寧にディスプレーされていて、エントランスにはオリンピックチャンピオンの女子ダブルスの選手の銅像まであった。
今もそうだが中国の人々は(台湾も)バドミントンが好きで、日本のボーリング感覚で性別や世代にかかわらず朝から外でも楽しんでいる。他方、広州市のバドミントンの歴史は『華僑』の歴史ともいえる。彼らは自分が生きるのも精一杯の時代の中で、【バドミントン(羽毛球)】の楽しさも南方の国から伝えてくれたのだ。正式には傳さんとその奥様が中心であったが、二人は子供たちにバドミントンの面白さ、難しさそして尊さを伝え続けた。その教え子が世界に羽ばたきチャンピオンになり、また地元の指導者となり、その子がまた・・・、と面々と続いた広州羽毛球の歴史をその資料館で教えてもらうと、目頭が熱くなった。
かつて、こちらの独身ジュニアコーチ(西武台OB)とお見合いパーティーまで仕組んだ独身女性コーチがいた。後に互いに所帯を持って子供に恵まれ・・・そこまでは私が伝え合ったような気がする。だがこのほど、その中国コーチと一緒に「娘さん」にも会えたのだ。身長は母親をはるかに超えた175cm以上の、笑顔がかわいいバドミントンが上手な娘さんだった。これが世界を制するチームの底力なのだろう。
広州市の中心に天河という川が流れ、その流域に広がる地域にスポーツセンターがそろっている。今では中心に巨大スタジアムがあるのだが、その昔そこはだだっ広いグランドだったそうだ。そこにみんなが自転車で集い、その自転車にポールをくくりつけ、ネットを張りワイワイガヤガヤバドミントンを楽しんだらしい。最初はそこから始まったのだ。
「日本は今世界で一番強いよ!」と何度も言われた。「モモタ!」「ヤマグチ」、とは言うものの、私が目の前観ている中国選手が、もし日本のインターハイに出場したら我々はひとたまりもない、それほど強い、うまい、たくましい!だが世界に出られない。枠は同じで選手層は日本の10倍以上だから、簡単には世界に挑戦できないのだ。今回同伴してもらったオフィス華林のリンさんの言葉を借りれば、「中国は日本の10倍(の人口)以上、いい人も悪い人も10倍いるんです。」中国の選手たち、彼ら彼女らの苦悩もひしひしと伝わってきた。
『西武台の選手はいいよ!』と1996年の第1回遠征の際に、前述の広州バドミントン生みの親である奥様が私たちに言ってくれた。その記念すべき第1回交流事業の女子キャプテンの実家の田んぼで米作っていることや、その遠征の「おまめ(1年生)」選手の娘が今西武台のエースなんだ、っていうことを言っておけば良かったんだが、あちらの酒が強く強くて残念無念の広州の夜だった。
広州市バドミントン協会資料室(露天バドミントン)
写真集はFacebookに載せました。