幕が上がる

いよいよ、というかあっという間に師走になった。北国からは雪や氷の便りが届くが、この辺りはまだ実感がない。しかし週末から突然真冬になるとテレビで言っていた。

テレビといえば、『幕が上がる』を観た。観ては止め、観ては止めを繰り返し、やっとエンディングまでたどり着いた。原作は3~4年前に読んだが、映画版を観るのは初めてだった。当然原作とは違っているところがいろいろあったが、通底する雰囲気は同じだった。

高校生の演劇部を扱った物語で、原作では北関東の高校になっていたが映画は静岡のようだ。ストーリー仕立てはよくある「弱小→成長→問題克服→サクセス?」風になっている。「よくある」と書いたが実際にはそんなによくあることではない。こうありたいと思っているひとは大勢いるが、何しろ高校物には「大会」がつきものだから、優勝以外の多くは必ず辛苦をなめるのが現実だ。でも観る人たちは「あるある」か「あったなぁ」と共感するんだ。

原作の平田オリザさんの本はよく読むし、話も聞く。もちろん演劇も観たことがある。しかしあのおじさん(失礼)がよくもまあこんなに女子高生の心のひだを、若者の本音を知っているものだと驚きながら読んだのだ。特に部長さん、突然現れる新任の若い女性教師、この二人の葛藤や心の移ろいがちょうどいいハーモニーになっている。

それでなくても学校という職場で様々な問題や葛藤を繰り返し味わっているのに、なんでまたそんな疑似体験をしなければならないのか?と思いながらも教壇に立って受験間近の3年生へ過去問演習を行っているとき、その英文の中に、no conflict, no story.(葛藤のない物語はない)というものがあった。つまり我々はそこに(スクリーンに)自分を投影しているののかもしれない。no conflict, no life.なのだろう。

いいジジイが観るものじゃないだろう、と言われそうだが、映画の魅力は常に「共感」であって、それはアクションものの洋画だろうと寅さんだろうと同じに違いない。その「共感」で少し心を洗ってまた現実に戻る、そうした繰り返しになっている。

気がつけば目の前でまさに「幕が上がって」若者たちや多くの人々が様々な困難や問題に向き合い、そして支えあい喜び合うシーンが繰り返されている。おじさんはおじさんなりに共感し、感動し生きていくのだ。

次は何を観るかな?

玄米炊いて食べました。青木さんの自家製梅干しと一緒に。