大掃除

年の瀬なのだがまだ大会などが残されている。昨日全校集会を終え、学校は冬休みに入った。

「クリスマスはどうするの?」という問いが今時の「普通」だろうが、期待できる大イベントはない。東京の下町で生まれ、埼玉の町工場に囲まれて育った私にとって「クリスマス」とは憧れの文化への入口であった。しかし正月ほどの重みはなかったし今でもない。

中には煙突もろくにないのに「サンタが、サンタが」と背伸びした妄想にとりつかれたヤツもいたが、ほとんどは「正月お年玉集金の前夜祭」的な欲まみれでとても『聖』なんて感じはしなかった。

一方で、ふとその頃を思い起こすと、とてつもなく貧しい友達もいた。「なんで○○の家はあんななの?」と母親に聞いたことがあった。母は「あのうちが悪いんじゃないの」とやんわりとした返答をした。「なにかの事情」というのもこの頃覚えたことだ。わかったのは、その言葉の裏には「あの子はあんたの友達でしょ」というサインが隠されていたことだ。

小学生の6~7人に1人は貧困だと言われている。他方、今冬のボーナスの平均が100万円近くになったというニュースも聞いた(よく聞けば、数%の大企業の話で、中小の企業ではボーナスさえない会社もある、そんな現状もわかったのだが・・・)。家計や食事に困っている家庭ではそれこそクリスマスどころではないだろう。しかしパッと観てもわからない。つまり持っている物や身なりでは察することができない。だから声もかけられず苦しんでいるんだろう。「彼らは自助努力が足りなかったんだ」という自己責任論は全く的外れだというのが最近の通説である。

「家計の事情は子供の学力に強く影響している。貧困家庭の子は学力が低い」などももう一つの通説である。聞けばもっともだと思うデータも並んでいる。

しかし、少しおかしな気がする。それどころか大いに気になる。だって、彼の偉人たちには「貧しさ」がつきものだったからだ。家庭は貧しかった。だからせめて勉強くらいは一生懸命にやった。産業も土地にも恵まれていない、だからせめて学問に精を出して、大都会で引けをとらない大人になってほしいと願い、苦しい家計を切り盛りしながら子供を育てた親も多かったはずだ。そうだ、お金をかけなくても勉強はできるはずなんだ。どこからか、いつからか変なデータや流行にこちらの感覚が麻痺して、妥協してきたのかもしれない。部活やって、スポーツやっているから勉強できない。これも同じ角度で完全に誤解している気がする。勉強も人によったら、合わないヤツもいる、それもわかるが「勉強してたら勝てない!」なんて言語道断だ。

「勉強」じゃなくて「学ぶ」にすればいい。人はとかく「知りたがる」生き物だ。その本能を素直に「学ぶ」にすれば良いかもしれない。

大変なときは目の前の何かを掃除するといい、と亡き母に教わった。自分の部屋、机の上、本棚を整えてみる。使っているハンカチを洗ってみる。はいているシューズのひもをほどいてみる、自らの手を洗ってみる・・・。何でもいいからきれいにする。そのモノの思い出もよみがえる。関わる人のことも思い出す。きれいにするとき何かしらの「学び」があるはずだ。こんなお金のかからない学びのリセットボタンがあったんだ。

暮れの大掃除は実にいいタイミングだ。蛍光灯も替えて、障子も張り替えて、自分も少しは学ぶか。

明日から栃木県で関東選抜大会が始まる。年末は30日までやってます。

師走の朝焼け