ハタチ

 雨が降るが雪は降らない。とてもとても「厳しい寒さですね」とは言えないほどの暖冬だ。

 今年は(というか今年からなのか)3連休が多い。祝祭日の変更などで暦も変わっているから気を付けないといけない。先週末も3連休で、当方は餅つき大会や練習試合などで3日間ともにぎわった。

 この連休のメインは「成人式」だった。市区町村ではこの「式」を恐るおそる開催している気がする。だって過去には様々な問題行動、というか案外滑稽なトラブルが続いていたからだ。明けのメディアで「どこかでまたトラブったかな?」と成人式事故ニュースを見聞きするが、ここんとこ鎮静化している感じもうかがえる。何で成人にもなって人様に迷惑をかけるんだと思う反面、未成熟な心の有様がもっと気になる。

 「おとな」の定義は3つある。

 一つ目は「子どもがつくれる身体になる」ことだ。ヒトが生きていくためにも、子孫を絶やさないためにも、この変化は欠かせない。いわゆる「生物学的なオトナ」である。

 二つ目は「反抗期が終わったころ」だ。何でもかんでも頭にくる反抗期は誰にでもあり、経験したり経験中の人もいるだろう。お気持ちはわかりますが、周囲の人はいい迷惑だ。先の成人式事故ニュースなども、この終息が来ていない若い衆が「つうか、関係ねぇよ!」くらいの啖呵切りながら20年後見たら恥ずかしくなるようなコスチュームで、それでもチラッとカメラ目線のあどけなさが残る彼ら、彼女らなどをよく見かかける。あと少し!っといった感じだ。「心理学的なオトナ」だな。

 そして三つ目、これも誰しもが経験する変化というか成長だが、「他人(ヒト)のために生きる」ようになるころだ。高校生の進路開拓中によく耳にする「将来は・・・に役に立つ人になりたい」という言葉。これなどは「おい、それって本当か?」と言いたいようなヤツの口からも自然と出てきて、それも「実はずっと前から考えていたんですがぁ・・・」などとダメ押しされ、引いてしまう。ひと口に「他人(ヒト)のため」といってもいろいろある。「ドクターになって国境を越えて・・・」や「国民の生命や財産を守り役に立ちたい」などの本格派から、「年老いて体が不自由なおばあちゃんのために」や「両親のために」などのパーソナルなもの、さらには「あの子のためなら命がけ」的な盲目ヒーローなども含めると大抵の青年がそう考えるようになる。難しい分類だが「社会の中で役割を担う」という考えから、これらは「社会学的なオトナ」といえる。

 これら3つはどれも自然となる。特に薬や治療もいらない。慌てることも身構えることもない。「自然」だ。そしてその3つが訪れる時期も程度もバラバラだし、ましてや個人差は大きいだろう。さらに本当にこの3つだけか?と言われれば自信はないし、3つそろわないとオトナと認めないかと言われればそれもアヤフヤだ。

 しかし、どうも自然な変化であるにも関わらず少しその流れにも変化がありそうだ。前回のこの場にも出ていたが「オトナになりたがらない、なれないオトナ」の出現は明らかだ。そりゃいつまでも子どもで、お年玉もらって、ご飯作ってもらって、洗濯してもらい、温かい寝床を用意されればオトナになりたくないよな。だけど変化、成長はやってくる。やってこないのはまるで地球が温暖化して気候が変わっていくような大事件と同じくらいのことなのかもしれない。それなのに昨今は成人年齢を引き下げようとする金勘定政策まで登場してきた。

 自分のことも考えてみた。相当前のことなのでうる覚えだが、特に3番目の思いが現れたのははっきりと覚えている。そして今の仕事に就いた。「バドミントンはどんなヒトでも楽しめる」ような心構えが長い時間とともに緩やかに作り上げられてきた感じがする。その中で特に周囲に「そんなこと言ってたらムリ」と言われることに抗ってきたつもりだ。

 晴れやかな着物やビシッときまったスーツで今春も新成人がわざわざ体育館まで足を運んでくれた。「あなたたちは誰のために、何のために生きるのですか?」と聞かれたらどうするか。ほんの小さなやさしさでもいいし、思いやりでもいいから『弱いヒト』の役に立ってほしい。

 一方で、あたたかな新春とはいえ、ことに受験生にとっては心細く気持ちがさめざめと凍えるような思いになっている頃だろうと思う。

 そんな時でも「お前じゃムリだよ!」と言われるようなことをやってのける、大胆で若者らしい激しさを見せつけながら前に進んでもらいたい。

 人生航路の第2ステージ、健闘を祈る。