イ・ト
週末「春が来た2023」が行われた。多くの皆様にお越しいただき、盛大に、そして笑いあり涙ありのひとときを味わった。
企画、そして準備作業からおもてなしまでのご協力をいただいた関係の皆様に改めて御礼を申し上げます。
その際に配布された文集の中から拙文を掲載します。
ゆるやかな日差しと、ホワっとした風を感じながら南に向かってゆるゆる歩く。春を迎えたばかりの娘の街にやって来た。近くには「中学校」があり、突き当りに土手があった。階段を上り見渡すと、ずっと遠くの山肌にはまだ白い筋が残っていた。堤はうっすら緑がかり、流れる川面は緩やかに右に流れていた。私はそこから左に進んだ。学校のテニスコートが2面、土手沿いに縦長にあり、土曜日の部活動だろうか、男女それぞれ1面ずつ使っている。おそらく「1年生は最初“ソ・ト・レ・ン”(外練習:もともと外だが)!」と言われたのか、1年生と思われる男女それぞれのグループが土手にのぼっていた。そして男子は走り出した。女子は走ろうとはせず、お話し、ブラブラしながら私の前を歩いている。しばらくすると1人が走り出し、2人、3人と走り出した。しかし2人だけは一向に走り出す気配はない。走り組がちょっと先の橋を右にわたっていくのが見える。
さて、私はなぜその土手にのぼり左に曲がったのだろう?私は右にも左にも進める選択を「左」に決めて歩いている。なぜだろう・・・?私はボーっと考えてみた。「左は上流だから?中学生がいたから?日差しに向かって?山に向かって?・・・」と様々なその時の無意識の決定について後付けながら考えあぐねた。
我々は生きている間、特に起きている間は様々な考えの決定を無意識に繰り返している。なぜ?などとはあまり思わない。むしろほとんどが無意識だ。これらを難しい言葉では「意思決定」と言うらしい。『意思決定論』という学問まである。ある先生は「ホールや、空いているカフェの席を何気なく選ぶとき、なにがしかの『意図』があってその席を選んでいる。意識的でも無意識でも、その選んだ理由を考えると自分がわかる」のような話をしていた。例えば、窓際で、眺めがよくて、日差しもちょうどいいから・・・、などだ。
「意図」を探る=「読む」技は、難しくもあり面白さもある。自分の「意思決定」の理由すら読みづらいのに、人様の「意図」など読むのはしんどい作業だ。たいてい、先ずは自分ならばどうするか、と重ね合わせて、そこにその人の性格やその時の状況などを掛け合わせて想像する。己を知ることから始まるのだ。
私は、あたたかな日の光を浴びながら山に向かって(川の上流に)歩いている。ポケットからイヤフォンを取り出して音楽を聴く。こんな時はどの曲があうかなぁ、などと考えて・・・。
「意図」に似た言葉に「考え」がある。
その「考え」を両手にのせて前に差し出せば「思い」になる。
そしてその「思い」を鳥を放つように上に投げ上げ、手を合わせれば「祈り」に変わり、
それが空に輝けば「希望」、さらに宇宙に漂えば「夢」になっていく。
私たちは無限の宇宙に「夢」を描き、輝く星に「希望」を見出すとき、風に乗って「祈り」が伝わり、気づくと両手のひらに「思い」が届き、そして涙があふれる。
時間はかかるが必ず届く。
キラキラ輝く川面をぼんやりと眺めながら前に進む。
春うららの心旅、夢と心がイト(糸・意図)で結ばれた。