30周年
大会はたいてい「運動公園」の木々に囲まれた体育館で行われる。その葉が黄色や赤に染まりハラハラ落ちていた。今年も後半戦に入ったのだ。
「誰かがなんとかしてくれるかな?」と救いのヒーローを待っていても始まらないので、まるでギリギリの宿題をこなすように30周年の準備に取りかかった。
会場は街の中のホテルのバンケットルームで、スカスカじゃみっともないし、入りきれなくなったらもっとまずいなと皮算用した。「なんとなく」まわした誘いで、最終的には170名以上の参加を頂き事なきを得た。来賓は招かずに身内だけの「家族会(ホームカミングデー)」にできたことはある意味良かったのかも知れない。
どこかで見たような、ホテル側の担当者は若い男性で我々の要求に上手に対応してくれたが、部屋代や料理の金額については「ディスカウントの帝王」イナダ先生も難航した。それでも駅や学校からのバス輸送をサービスにしたところなどはまだまだ魔王健在だった。
このままではただの「飲み会」になってしまうと危惧したので急遽「スライドショー」を用意した。パソコンでちゃっちゃとできるのだが、古い写真を見つけ出すと誰でもが陥る「タイムスリップ的余計な時間」を費やしてしまう。何せ30年分なのであの頃の懐かしさや、その頃の歯がゆさも伝わりフリーズしてしまうことが何度もあった。
それに音楽もつけなければならない。3幕に分けてあるので3曲、創部当初の10年に関しては「懐かしいけど少し寂しい」曲を探した。ゴンチチの「1997」が良いと思った。3曲目は「希望」を感じ、大会移動の時などに車内でかかっていた聞き覚えのある曲、曹雪晶の「Put Your Hands Up」にした。
そのスライドショーの幕間にはゆかりの方々に登壇してもらいエピソードなどをトークするのだが、その人選はその場で決めた。みなさん無茶ぶりにもかかわらず上手にお話ししてくれ、その横顔を見ているうちに目頭が熱くなってきた。
記念品も用意しなければならない。これは3期生の松澤社長に依頼したのだが、「温度計・カレンダー&電波時計付き写真立て」というどれがメインだか危うい商品なので、あえてこちらから一枚の写真を入れて渡した。その写真の加工や体裁に手間取っている時、社長からデータを撮りに来るというTELが入った。会まで数日しかないので「こっちでプリントアウトして箱に入れてラッピングするよ」と言うと「何言ってんですか、大丈夫ですよ。僕だって関係者なんですよ、やらせてくださいよ!」と言ってくれ、はたまた胸が熱くなる。
そのほかに今年バドミントン部と陸上部で作った米を僅かばかりだが、選手みんなでパッキングしてシールを貼りお礼のひと品にし、準備は完了した。
当日午前中、会場で準備作業が行われた。大体段取りが見えてきたときイナダ先生が「あっ、先生、ところで今日の流れはどうなっていますか?」と手帳を開いてメモ執り体勢のまま近づいてきた。打ち合わせはその時1回だけ。あとはレッツゴー!で始めようと思っていたが、さすがに会場担当の若い男性が、そこでお世話になる方々代表といった形で「今日の進行表を見せてくれませんか?」ときた。ここで狼狽えていたらみっともないので、ロビーのテーブルで「記念直筆進行表」をすかさず作成し、コピーし手渡すと、「ああ、そうですか」とすぐに空気を読んでくれた。あれで分かるんだからスゲー人たちだなあ、と感激した。
多くのみなさん、懐かしいかをもそろい、本当に良い会になった。4時間という長丁場をそれぞれが盛り上げていただき、最後は現役選手たちのコーラスで終盤をむかえた。その声がまたいい。またまたムネアツ(胸熱)になってしまった。
この日のためにメッセージや記念の絵を寄贈してくださったOBやお心遣いを頂いた多数の方のおかげで、30年の「良き門出」をこうして送ることができた。
会場の後片付けをみんなでやっているとき、会場担当の若い男性に最後のお礼を言いに行った。
「今日は何から何までありがとうございました」
「いい会でしたね。実は僕は『流山北高校のバドミントン部』だったんです。その頃はずいぶんやられましたよ!」と最後の最後にカミングアウト。
羽が取り持つ不思議な縁だったのだ。
数週間後、高校生の新人戦県大会が行われた。ドラマは現場で起こる!
そのお話はまた次回。