冬あたためるあこがれ

朝の陽ざしが少しばかり強くなった気がするが、相変わらず毎日寒い日が続いている。

中国からコーチ、選手が来ていたが、先週末はペルーからやはりコーチと選手がやって来た。

中国の選手もペルーの選手も日本の選手もいい顔して、澄んだ目をして羽を追っていた。そして互いに言葉を超えたコミュニケーションで距離を縮めていた。国が変わろうと、言葉が異なろうと、ネットを挟んですぐに打ち合えるし、試合もできる。スポーツのもつ力をこの目でみた。

しかし、やはり言葉が通じないのは歯がゆい。そこに登場するのがスマホのアプリだ。おすすめのアプリをスマホに搭載し空港でさっそく試してみた。

通じる。あちらもそれらしきアプリで応答する。互いに至近距離でトランシーバーを使っている感じだ。「わかった、わかった」は互いの言葉で言い合い、つながる喜びを笑顔で表現した。

「アプリなんて・・・!」とお叱りを受けそうだが、期間中は手放せない道具になったのは事実だ。しかしその一方で、こちらにはちょうどいい具合な「ゆるい外国語学習」にもなった。

まさかこんな形で外国語を学ぼうとはその昔は思っていなかった。こどものころ、それは小学生の高学年のころだったが、無性にアメリカにあこがれた。映画、雑誌、テレビ、そしてラジオで「アメリカ」に心が傾いていった。歴史で戦争のことを知り、悲しい過去を聞いたり学んだりしても、「だから仲良くしなければ」などと背伸びしたこともあった。さらに「堂々と英語が勉強できる中学生」が近づくとウキウキしたことも覚えている。

そして中学に入学する春からラジオ講座も始めた。

最初は何だかんだと屁理屈と一緒に単語を発音してみたり、挨拶を言ってみたりしていたが、そんなことより毎月届くテキストのコラムや写真に魅せられていった。しかしその写真は「アメリカ」ではなく「イギリス」のものばかりだった。そして私はイギリスにそしてヨーロッパに傾き始め、聞く音楽だって、訳(わけ)も分からないくせにその手のものばかりになっていった。

簡単に言えば、「英語のお勉強」の背後には必ず「あこがれ」があった気がする。それがアメリカからイギリスに、そしてヨーロッパ、南米、アフリカ、さらに遅まきながらアジアへと旅してきた感じだ。

バドミントンもその延長だったかもしれない。つまり「あこがれ」の延長だったのだ。何へのあこがれだかはっきりしないが、自分にはないものへのあこがれだろう。

校長先生がペルーの一行に「英語と中国語が話せますが、あとはスペイン語を勉強したい。そうすれば世界中どこでも話せるから。」とおっしゃっていた。

「アプリがあれば大丈夫ですよ」と言いたかったが、「世界中どこでも」という「あこがれ」はアプリでは解決できないと思った。

この春、何かを勉強し始める方もいることだろう。勉強でなくても「何か」を始めようとしている人は多いのではないだろうか。春を待つ寒い毎日にそれを包み込んでいる「あこがれ」を大切にあたためておきたい。その憧れこそがスタートダッシュのエネルギーになるはずだ。

ペルーのナミエ選手(左)と安念コーチ 撮影:白井先生