知らない世界

 晴れ間はあたたかだが、朝晩はすっかり寒くなった。師走も後半に入る。

 来週から成田市で関東高校選抜大会が行われ、続いて中学生が宇都宮市で関東オープンに出場する。年末ギリギリまで活動する予定だ。

 再放送まで観てしまう「チコちゃんに叱られる!」は当初「小生意気な着ぐるみだ」と思っていたが、何回か見るにつけどんどん近づいてしまった。そのナレーションを担当するNHK大御所アナウンサー森田さんの『そんなことも知らずに、やれ○○だとか、○○などと言っている日本人のなんと多いことか』というNスペ風決まり文句も、最初は引いていたが、繰り返されるたびに考えさせられることが多いのに気づいた。

 我々は車に乗り、電車に乗り、スマホを使い、コンビニで買い物をする。しかし、その車の仕組みは大体しか知らない。部品の組み立て方や、ましてやそれに携わった人々の手際や苦労などは分からないし、考えることもまずない。電車にしてもスマホにしても、そんなことはお構いなしである。

 つまり私は何も知らないくせにあたかもそれが当然のように乗っかり、使い食べて暮らしている。「そんなこと知らずに・・・」という先ほどのセリフを当てはめると、私などは叱られる対象ど真ん中である。

 もし寅さんが生きていたら「俺も難しいことはわかんないけど、そんなこといちいち考えていたら生きてなんかいられないんじゃないかぁ」なんて言うかもしれない。もっともだ。

 また一方で「飛べ、飛べって言われてもスーパーマンじゃないから飛べないんだよねぇ。」これも寅さんの名言の一つだ。我々はいつしか何でも操れると思っている「スーパーマン化」しているのかもしれない。

 1980年代にこの様な「スーパーマン化」する若者に警笛を鳴らしていた先生がいた。その先生は経済用語の「支払猶予」という語を借用して「モラトリアム人間」と呼び、何でも当たり前にできる「万能感」を抱いている「大人になり切れない大人」を分析していた。

 そのなかには「夏の電車でクーラーが故障してキレる(当時はキレるとは言わなかったが)」「自動ドアでない扉の前で開かないことにキレる」などがあったが、「夏は暑い(最近は度を越しているが)」「ドアは本来手で開ける」が当たり前だが、機械や装置に飼いならされてしまった人が「モラトリアム化」する兆候だと書かれていた。私自身だってこの様な事態を経験したことや考えたことは少なくない。だから気を付けなければならないな。日本には「一木一草にも心あり」という言葉がある。自己中の有頂天野郎にならないように謙虚さも大切である。

 バドミントンの当たり前は「決まらない、終わらない」などだろうが、それを「やれモモタだソノカムだ、と言って鬼のような顔でスマッシュを打ち、そしてそれをネットど真ん中にかけるミスを繰り返している若いシャトラーがなんと多いことか」と言われそうだ。だがこれはチコちゃんに叱られても治らないかもしれない。当たり前を消し去ることは不可能ではないが時間がかかる。じっくり腰据えて「キレずに」取り組める「オ・ト・ナ」になればいいのだろう。

 師走は「忙しい」が「当たり前」のようであるが、「忙」とは「心をなくす」とも言われる。落ち着いてゆっくり年の瀬を迎えたい。

 

白蛇神社から上田市内、遠く美ヶ原を望む

ツクバネの実