AI
関東選抜大会が終わり、春の全国選抜にも男女そろって駒を進めることができた。そして今日県内の私学大会を終え、いよいよ明日は今年最後の練習となる。
大きな大会になるにつれて審判の格も上がっていく。そして不思議と「フォルト」の数も増える。ことにゲーム序盤に、「最初に釘を刺しておけ」と言わんばかりにフォルトをとる審判がいる。これが自分側の不利になろうものなら気分は良くない。
「選手がお互いに満足してやっているんだ。ラリーやゲームに水を差しているじゃないか」などとブツブツ言いながら、「もしかしたら審判ってAIがなくす仕事になるんじゃないか?」などと心の中で悪たれをついている。ジャッジもコールもAIでできそうだが、もしかしてもうすでにそんなアプリでもあるのではないだろうか・・・。
とバカなことを考えているこちら側、すなわち「指導者」だってAIにとって代わられる日が来るのではないだろうか、そう気づくとまた違う妄想が始まった。
「今日のメニューはズバリこれです」「少しネットプレーの練習を増やした方が良いです」「相手はあなたのスマッシュを待っています」などと練習や試合中のアドバイスをAIが搭載されたロボットがするのも遠い夢物語ではないだろう。
このAIはその選手やバドミントンに関するあらゆる情報をいわゆる「ビッグデータ」として収集し自在に解析する。そして選手やチームに提言し、さらに選手の技術の獲得を随時評価しながら成長の過程をなぞっていく。こんな流れではないだろうか。
だがこのような流れは「指導者」も行っている。「よく観察して」「練習メニューを組んで」「できるまで付き合う」という3ステップだ。だから「先生」も「AIが無くす職業のひとつ」と言われる理由がよく分かる。
しかしAIが手に入れる「ビッグデータ」は量こそ巨大ではあるがいわゆる「点」として集積するのに対して、人間は観察眼の奥で「線」として、あるいは「面」や「空間」として獲得するのかも知れない。例えば写真は「点」の集まりでできているが、人間が描く絵はいきなり「線」でしかも色や描写法などを駆使して絵筆でササッと描いてしまうように。このあたりがAIとは簡単に比較できないところなのだろう。
先日ラジオ番組で
「これからのAIロボットは、私たちが家に帰ると『お疲れ様でした、まず冷蔵庫を開けてください。賞味期限があと3日の餃子があります。次の手順に従って調理してください。』などと言うようになるらしいよ。つまり家の中の冷蔵庫の中までAIは知り尽くすようになるんだよ!」とある男性が自慢げに話すと、女性が「なにそれ、おかしいんじゃないの!そんなの言われなくてもわかるじゃないの、主婦ならば。」と強く切り返していた。
そうだよ、そんなこと「だいたい」分かるじゃないか、と私も思った。
AIの知の獲得と人間のそれとは実はコンセプトが違うのではないかと個人的に常々思っている。だから人間だけができることもあるのだ。
調子が悪い選手に「これはダメだ」とAIならレッテルを貼り付けるところを、人間の「思いやり」とか「やさしさ」とか「カン」のような「何か」で選手を解放し大きく成長させるなどという話はスポーツの世界ではよく聞く話だ。
しかしながら、これを書いているこの瞬間も某かの科学技術にお世話になっているのも現実だ。だからバドミントンの指導も某かのAIにお世話になりながら行う日も遠くないことだろう。
戌年の2018年はそういったバドミントンAI元年になるのかも知れない。
酉年の2017年の一年間、様々な場面で数え知れないほどの方々にお世話になった。そして選手やチームまるごと支えられながら過ごしてきた。
この場をお借りして皆様方へ心中より御礼を申し上げるとともに、今後とも研鑽と努力継続をここに誓い、ご挨拶とさせていただきます。
ありがとうございました。
お疲れ様でした。