変わりながら変わらずに

謹んで新年のお祝辞を申し上げます
旧年中はひとかたならぬご厚情を賜り、誠にありがとうございました。
本年も相変わらず、よろしくお願いいたします。

 初日の出より早く空を見上げると、真っ暗。まさに夜明け前の静寂につつまれている。今が一番夜明けが遅いんだなぁ、そう考えているうちに東の空がうっすらときれいな紅色にそまってきた。

「年始はいつから練習ですか?」という問い合わせが重なった。今日がその日なのだが、それに合わせて来校する選手や関係する方々で賑やかな一日になることだろう。

 家庭でも年に一回くらいは離れて暮らす家族が顔を合わせる。我が家にも娘夫婦が生まれたての乳児とおだやかに・・・、と言いたいところだが、赤ちゃんの様子に合わせてみなが忙しく動き回り、それにつられて煩犬「ブラン」が「何んすか?どうしたんすか?!」と言わんばかりにはしゃぎ回りホトホト困っている。

 ところで、これを書いている2階の自室(私はここを【本部】と呼んでいる)の書棚の高いところにヒツジのぬいぐるみがある。娘が幼い頃「動物に慣れるように」とでも願っていたのか、一緒に遊ばせていたようだ。その子が猫を飼うようになり、それを卒業し、その後犬を飼い、付き合う周囲のヒトをはじめとした生き物やモノが入れ替わり立ち替わり変化しながら、今や自分の幼子をあやしている。別に卒業したヒトやモノを粗末にしているわけではなく、いずれも大事なのだろうが、成長とともにコミュニケーションの対象が変わっていくことは事実である。これからもどんどん変わってゆくのだろう。

 当方も、今年はどんな年になって、どんな人と巡り会えるのか楽しみである。が、年末【徹子の部屋】でタモリさんが、「来年はどんな年になりそうですか?」の問いに、「誰も予測できない。でもなんていうか、新しい戦前になるんじゃないですかね」と答えていた。誰もが心の隅に抱いていた不安をサラッと言ってしまうのがタモリらしさだ。他方、そこまでの悲劇ではなくとも、様々な別れと出会いは少なからず訪れることだろうと私は思っている。

  バドミントンのチャンピオンも同様に入れ替わり立ち替わり、時代とともに変わりゆく。今回の全日本総合では【冠がなくなった事件】が勃発したが、表彰式で歴代チャンピオンによる花束贈呈が行われた。不幸中(?)の幸い、これでいいんだと思った。変わりゆく花々をともに育み、ともに励まし、支え合うそのセレモニーが素敵だった。次の華を育てる意欲もわいてきた。

 しかしながら残念に思えることもある。チャンピオンの履歴と海外での活躍やランキングを大雑把に観てみると、ある世代の選手たちだけがその座を支え続けていることがわかる。ちなみに、その前後世代は世界クラスでは活躍できていない。これらの足跡をたどれば、選手を取り巻く環境の変化、その善し悪しは簡単にわかるはずだが、残念なことに修正が効かない。例えで言えば、ピントが外れたぼけた写真を何枚も見続け、あるときからクッキリした、しかも最高のワンショットを観ることができるようになった。しかし昨今緩やかにその焦点が再びずれはじめ、構成もイマイチになりつつあるのだ。そういう自身の眼力も今一度磨かなければならない気もするが・・・。

 栄枯盛衰は世の習い。どんどん変わり、淘汰されたり、流星のごとく現れたり忙しい。しかし、変わらなければならないモノと、なくしてはならないコトもある。変わらなければならないことは、変化に対応すべきものであり、生き残る知恵でもある。一方で「なくしてはならないコト」は目に見えない哲学であり、信念、心ではないだろうか。

 長年世界トップアスリートの育成に尽力してきた方から最近いただいた言葉。

 若い頃に描いた夢に向かってまっしぐらだったころの文章は勢いもあり、生き方も波瀾万丈でおもしろい。そしてその夢の続きが「今」ですね、という私の問いに

「書いたとおりに生きてきたのかな?」ときわめて謙虚で控え目なお答え。しかしその最後に「(それでも)ぶれずには生きてこれたかな」と締めくくった。

 私は【鋼(はがね)】のごとき一筋の「信念」をそこに痛感した。

 

 これを私の「新年」の第一投として受け止めさせていただいた。

 変わりながら変わらずに生きていこう!

 夜明け前の東の空には、初夏のころ頭上で輝く星がすでに顔を見せていた。